なぜある人は死のうと思うのだろうか。
私は死のうと思うことはない。
なぜだろうか。
なぜ死のうと思わないかを分析してみる。
サイエンスが好きで
調べまくっている。
数学も好きだ。
時間が足りないほどだ。死んでる余裕もないほど忙しい。常に宇宙と生命の謎について考えている。散歩しながら無意識に考える。
忙しいと死を忘れる。
学生時代には仏教哲学に没頭した。もちろん学会活動という仏道修行を基本に。
こう考えてくると
知的活動が
死の誘惑に抗する源泉だと思える。
知的活動を維持し続けるには目的観やモチベーションが必要だ。
それは価値の創造ということだ。特に大善の創価。
未知の新しい価値の探求が生き甲斐である。
死への誘い抗するために教育が大切だと思う。
創価の哲学が教育学から始まっているのは
以上の自分の経験から至極当然だと思う。
何から始めればいいのかわからないなら、まず健康科学や栄養学を探求したら良いと思う。
それは直ぐに役立つ知識であり
死のうという気持ちとは対極にあるサイエンスだ。
もちろん仏法の哲学を根底に置かなければサイエンスも核兵器みたいなサターンであり、すなわち死の死である。
心の病は
法謗を治することでしか直せない。
法謗を治すためには
バチの科学を確立することが近道である。
バチなんてないと思っている天狗や天邪鬼の餓鬼畜生らを厳しく教育する行動
これは避けられない。