こういう時があるかもしれない
いま自分はバチを受けているのか、功徳に護られているのか
バチのようにも見えるし、功徳に包まれているようにも見える
イチなのかバチなのか
区別が付かない
そういう生命状態というものがある
結論から言えば
一念で不信を勝ち越えるしかない
強る心が必要だ
すべてがバチだろうがそれも功徳だと確信して
信念の道を突き進めばいい
大聖人が
諸天も捨て給え
と言い切った状況と同じだ。
しかしそいう時
魔山が囁く
それはバチだよ
偽本尊のせいだよ
みたいな魔の囁きが聞こえて来る。
魔がチラつくように出来ているのだ
この娑婆世界は
しかし
心が弱き者はそこで魔に敗れ去りやすい
だから組織につかないといけない
組織こそが魔から護ってくれるファイヤーウオールなのだから
組織を軽くみているのは既に魔にやられている物と同じだ
学会は社会的価値を大事にしている
教えが正しいかどうかの判断基準は社会で実証するという方向に向かっているかどうかに尽きる
結局、社会で生き残れる力がなければ不幸になるしかない
社会で勝ち残る厳しさも知らないお山の大将についていって幸福になれますか?と言われても意味が理解できなくなったら、転落寸前の状況だと気付くべきです。
社会にはバチの恐ろしさも分からない幼稚な人間が増えている
バチ論を説くしかない。
気付かせることが慈悲だ。
可哀想だが
幼稚な輩はバチで自滅していくだろう。
大聖人のように
過去世の全ての罪を受け終わったら
弄れば火傷する金剛不壊の生命になっている。
何の罪もない人間ほど恐ろしい者はいない。
ヤケドする。
だから
魔山の囁きに惑わされず
学会の信仰を貫いていただきたい。