今年は日興上人誕生777周年であった
日目上人は
11月15日に
逝去された
不可思議である
愚痴文句の退転者どもが
学会員を見下す様は
滑稽である
来年は
さらに
前進して
勝利をもぎ取ろう
日目上人が逝去された年は
鎌倉幕府崩壊の年であったことも
忘れてはいけないでしょう
大聖人の提言を
無視して
崩壊して行ったのである
今年は日興上人誕生777周年であった
日目上人は
11月15日に
逝去された
不可思議である
愚痴文句の退転者どもが
学会員を見下す様は
滑稽である
来年は
さらに
前進して
勝利をもぎ取ろう
日目上人が逝去された年は
鎌倉幕府崩壊の年であったことも
忘れてはいけないでしょう
大聖人の提言を
無視して
崩壊して行ったのである
引用
御書と師弟 「唱題の大音」 (2009年6月4日)より
■御本尊とわが生命
戸田先生は語られました。
「今こうして折伏を行じ、御本尊を信じまいらせて題目を唱えているならば、いつ御本尊を拝んでも、日蓮大聖人の生命と我々の生命とがピタッとふれ合うのであります」
「大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たる我々の生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう」
私たちが拝する御本尊は、十界互具の大曼荼羅であられる。御本尊には、十界の衆生の代表が納まり、南無妙法蓮華経の光に照らされています。御本尊も十界、私たちの生命も十界です。そして、社会も十界の生命で成り立っている。
御本尊に題目を唱えると、三世十方の仏菩薩が、私たちと同じく合掌します。また、全宇宙の無数の諸天善神が、絶対に従います。十界の生命を揺り動かすのですから、悪鬼・魔民さえも強い味方となって、妙法を護り広げる働きをすることは間違いないのです。
これはバチなのか功徳なのか?
バチにも見えるし功徳にも見える
という状況が
人生にはあるかもしれない
そこで大事なのは
確信と題目だ
信念の行動を継続しつづけることだ
そうすれば
長い時を経て
あれはやはり功徳だった
と
思える日が来る
きちがいや
餓鬼畜生
天狗
天邪鬼が
次々に襲いかかってくる
ゲームみたいに
まだいるの
どれだけいるんだ多すぎじゃね?
と言うぐらいに
うじゃうじゃ襲いかかってくる
叱り飛ばしても良い
蹴散らさないと
キリがない
2度と
悪戯しないように
叱れ
3人組は
このような大事な時に
つまり
師弟不ニ
生死不ニ
生死一大事血脈の時に
ブログに何も
反応もないようである
今後の決意のひとつも
アップデートも何もない
これが自称弟子の実態だと
思った
日目上人は
11月15日に
御逝去された
諫暁の旅の途中で
777周年というのは
如何なる意味や意義があるのだろう
と思われるかもしれない
ただの偶然や
数字に意味なんてないよという輩もいるかもしれない
私はこう考えている
この世界は
善と悪の闘争の場なのである
すなわち仏と魔の戦いの舞台
これが宇宙生命の実相
簡単いえば
この世は
将棋やチェスや碁みたいなものなのだ
将棋やチェスや碁は数学であり論理学でありアルゴリズムでありゲーム理論である
そう考えてみると
777はあまりにも深い意味がありそうだ
そもそも
物理学では
ホログラム宇宙論というものが
大真面目に研究されていたりする
なんと
この3次元空間の宇宙は
2次元の投影だというのだ
宇宙の2次元の表面に全て情報が乗っかってて
それが私たちの3次元になっているという
そうすると
その2次元は
まるで将棋やチェスや碁の
2次元ボードみたいである
777というのは
宇宙ゲームに
仏の数値として記録されたのだ